【連載】『あの人の学生時代。』 ♯5:高須クリニック院長 高須克弥
著名人の方々に大学在学中のエピソードを伺うとともに、今の現役大学生に熱いエールを送ってもらおうという本連載。今回のゲストは「YES! 高須クリニック!」のCMでもおなじみ、『高須クリニック』院長の高須克弥さんです。日本において美容整形をメジャーにしたパイオニアであり、この分野の技術を牽引し続けているトップランナーの高須院長はどんな学生時代を送ったのでしょうか? 昭和医科大学(現:昭和大学医学部)で過ごされた高須院長の青春時代について取材しました。
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政治的に熱い時代を過ごした学生時代
――高須先生が大学生だったころ、どのような学生生活を過ごされていましたか?
僕の高校時代は60年安保闘争の真っ盛りで、大学に入学した当時も若者は左翼革命を夢見ている人がいっぱいいましたよ。当時は昭和医科大学の教授がみんな東京大学からやってくるから、それにかこつけて東大の学生もしきりにうちの大学にやって来るんだ。政治活動をやっている学生が「オルグ(勧誘活動)」をしにね。「デモに参加しろ」って言われて、デモに動員されていました。
――デモに参加したことは……?
ありますよ。初めてデモに参加したときは、何も知らないもんだから奥さんも一緒にピクニックに出掛けるような気分で行ったね。奥さんなんかハイヒールを履いていたんだよ。そんな中で正面に機動隊が棒持って立ってるでしょ。こりゃエラいことになったなあ、と思いましたよ。
もうもみくちゃになっちゃって、やっと静かになったと思ったら、奥さんがハイヒールが片っぽないって言うんだよ。機動隊が引いて、ずらっと並んでいるその前の、道のところにそれが落ちている。男として拾いに行かなきゃならない(笑)。
――そのヒールはその後どうなったですか? 拾いに行ったんですか?
行きましたよ(笑)! 静かになっちゃった後だったから「一人で機動隊の方へ向かっていくヤツがいる!」なんて注目されてさ。行ってニコニコしながら「すみません、僕は違いますから。違いますから」ってペコペコして、ハイヒールを拾って戻ってきた。
――それはそれですごい勇気ですね。
そういう時代だったんだね。僕らはそんな一生懸命デモに参加してないからさ、すぐに逃げちゃうわけ。で「昭和大学のやつらは軟弱だ」なんて言われて、デモに行くと先頭に行かされる。それで僕らの列の後ろに青竹を横に持った連中がいて、後ろに逃げられないようになっているんだ(笑)。
――ひどい話ですね。
東京大学なんか授業のボイコットもやって、当然全員留年になった。僕たちはスムーズに卒業して国家試験も受けましたけどね。僕たちのころは年に2回医師国家試験があった。2回チャンスがあったわけだ。もちろん2回目で受かると恥なんていわれていたので、僕はちゃんと1回目で受かりました!
自分で部活を立ち上げ、関東ベスト3を目指す
――大学時代は何に情熱を注ぎましたか?
空手ですね。スポーツは一生懸命やりましたよ。
↑当時の「昭和大学 空手部」のみなさん。高須院長は後列の右端。
――昭和大学にアイスホッケー部を創設したのは高須先生、という話を聞きましたが本当ですか?
本当ですよ。確かに僕が大学の理事長に交渉して創部しました。
――なぜアイスホッケーだったのですか?
当時はね、関東の医学部リーグに属するアイスホッケー部が3つしかなかったの。
・慶應義塾大学
・東京慈恵会医科大学
・東京医科大学
だけだった。だからここに入って一つ勝てば「関東のベスト3」になれると思ったんだ。
――なるほど。理事長とのサークル設立の交渉はうまく進んだのですか?
理事長も乗ってくれたよ。なにせ総合大学になろうとしていたからね。学生を集めるためには大学の名前を売らなきゃならないもの。とにかく陸上とかいろんなスポーツに力を入れ始めていた時期でした。そこへ「1回勝てばベスト3ですよ」という話を持っていったからね。「よしわかった! 頑張ってくれ」と言ってくれましたよ。
↑当時の昭和大学アイスホッケー部のみなさん。高須院長は後列の右から5人目(右肩に「3」番と入っている)
――空手だけじゃなくて、アイスホッケーも。スポーツに一生懸命だったんですね。
アイスホッケーは富士急ハイランドが僕らの練習場でしたよ。なにせ理事長のお墨付きでやっているわけですから、多少入れ込んでも単位を落とされないだろうと思って一生懸命やりましたよ。実際、単位を落とすことなくスムーズに卒業できました。