【連載】『あの人の学生時代。』 ♯4:株式会社エニグモ 代表取締役 須田将啓
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理系科目が得意であることが、自分のアイデンティティになった。
―学生時代の夢は、教授か経営者になることだったとお聞きしました。これはなぜでしょう?
当時、世の中にインパクトをあたえられる仕事がしたいと考えていて、僕にとっては教授と経営者がそれに相当する職業だったんです。僕は理系なので、新しいテクノロジーを開発して世の中を変えたり、あるいは誰もやったことのないビジネスを実現したり、そんな夢を思い描いていたんです。漠然とですが、30歳になったときには何らかの成果が出せるように20代を過ごそうと考えていました。
―では、理系に進むことになったきっかけは?
小学生時の頃、大好きな魚ばかり食べていたら、塩分の取り過ぎで腎臓病になってしまって……。2カ月ほど入院生活を送ったのですが、そのときにヒマなので算数ドリルばかりやっていたら、退院後に「算数博士」と呼ばれるくらいの得意科目になったんです。子どもの頃は特に人よりできる科目は楽しいですからね、そのまま理系科目に秀でていることが自分のアイデンティティになりました。
―しかし、結果的には教授ではなく、まずは広告代理店に進まれています。これは将来、経営者を目指すためだったのでしょうか。
これも小学生のときの話ですが、テレビで大きなイベントの裏側を見せるドキュメンタリーをやっていて、そこで働くイベンターさんたちの姿を見て、「おもしろそう」と感じたのがきっかけでした。その影響から、小学校では放送部に、中学校でも広報関係のクラブに入ったんです。何かを企画したり、運営したりするのが好きな子どもでしたね。
大学時代のイベント企画が仕事のヒントに
―大学時代はどのようなことに打ち込んでいましたか?
子どもの頃の延長で、大学では企画サークルに入り、3年生になってからは代表も務めました。たとえば学祭のときには、アーティストをブッキングして集客したり、映画のフィルムを借りてきて上映会をやったり、いろんなイベントを仕掛けました。今にして思えば、広告代理店の仕事に近いことをやっていたのかもしれませんね。
ちなみに、僕が在籍していた慶應義塾大学では、学祭で利益を出してはいけない決まりがあるんです。そのため、売上げとコストをぴったり合わせようとがんばるわけですが、計画通りに物が売れるほど甘くないので、いつも赤字になってしまいます。その赤字を補填するために、他で儲けをださなければならず、メンバー全員でアルバイトをしたり、クラブを貸し切ってダンスパーティーをやったり、なかなか大変でした。憧れていたイベントの仕事がやれて、充実してはいましたけどね……。
―当時の経験したことで、経営者となってから生きていることはありますか?
計画を立てて実行し、反省をして次に生かすという、いわゆる「PDCA」は無意識にやっていたように思います。でも、そういった実務的なことよりも、「やろうと思えば何でもできる」という自信を得たことが大きいでしょうね。それが実行力につながり、こうして会社を起ち上げてからも、常に「なんとかなるだろう」と構えていられるのは、当時の経験があればこそです。
また、仲間を動かすためには、まずリーダーが自ら率先して動く必要があるというのも、サークル活動を通して学んだことでした。やはり"背中"で見せなければ、人は動いてくれないしついてきてくれないのかもしれません。