【「吾輩は猫である」の夏目漱石、実は〇〇の方が好きだった⁈】はじめての「夏目漱石」おどおど #あつまれ!_おどおど学生。
夏目漱石といえば、現在では「文豪」といわれ、日本文学史にその名を残す巨人です。漱石先生の作品を読んだことはなくても、国語、歴史の教科書で名前はご存じでしょう。
文豪と聞くと気難しそうな人物を想像するかもしれませんが、漱石先生はとてもチャーミングな人でした。明治時代の人ですから現代からすると堅物で、相当に気分屋なところもありましたが、それもひっくるめて弟子たちからとても愛された人だったのです。
今回は、夏目漱石という、現在の言葉でいうなら一種ツンデレな文豪についてご紹介してみます。漱石先生の人となりを知れば、作品についても興味が湧くかもしれません。
割と不幸な生い立ち?
漱石先生の本名は「夏目金之助」といいます。夏目小兵衛直克・千枝夫妻の五男として出生しました。「金之助」というと珍しい名前のようですが、金の字が入っているのは厄除けのためです。生まれた日が「庚申の日」に当たっており、「この日に生まれた赤子は大泥棒になる」という迷信があったので「金」の字を入れた名前にしたのです。
もともと夏目家は裕福な家だったのですが、(金之助の)祖父の代で家が傾いたためか(諸説あり)生後すぐに養子に出されてしまいます。いったんは生家に戻るのですが、また養子に出されます。出された先の塩原家の夫婦が離婚したので再び生家に戻るのですが、このとき金之助くんは9歳でした。
また、実の父と養父が対立したせいで21歳までは夏目家への正式な復籍がなりませんでした。つまり、それまでは塩原金之助だったのです。
このようなややこしい話が金之助くんの人格に影響しないわけはありません。後年、この養父が、金之助くんが大人になった後にちょくちょくお金をせびりに来るようになるのです。その様子は小説『道草』に描かれています。
「漱石」はもともと友達のペンネームだった
帝国大学(現在の『東京大学』)に入学する前、1889年(明治22年)には生涯の友人となる正岡子規に出会っています。正岡子規が手掛けた文集『七草集』の巻末に作品の批評を漢文で書き、このときに初めて漱石という号を使いました。文集を自分で作る正岡子規も相当ませた少年ですが、批評を漢文で書いた金之助くんも相当です。お互いに「むむ、こいつできる」と思ったのかもしれません。
ちなみに「漱石」は、「漱石枕流(石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す)」の故事※から取ったもので、「頑固者」「変わりモン」といった意味です。
晋の孫楚が若いころに、世の中が嫌になって隠遁生活を送りたいと思いつめ、友人の王済に、「山奥に行って、石を枕に清流で漱ぐような生活をしたい」と言うべきところを言い間違ったという故事です。普通なら「石枕漱流(石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ)」と言わなければならなかったのですが、テレコになってしまったのです。
○石枕漱流 ⇒ ×漱石枕流
これを聞いた王済は「流れを枕にして石で漱ぐ?」と笑いました。孫楚は「流れを枕にするのは俗世間の賤しい話で穢れた耳を洗いたいから。石で漱ぐのは俗世間の賤しいものを食べた歯を磨きたいからだ」と言い返しました。
――というわけで「漱石」は「頑固者」「変わりモン」という意味になったのです。結果からいえば、このとき金之助くんが名乗った「漱石」は、まさに自分を的確に表現したといえます。「漱石」はもともと正岡子規が使っていたペンネームの一つだったのですが、これを後に譲り受けました。
「吾輩は猫である」のモデルになったネコは……
夏目漱石の処女小説は大学生読者の皆さんもご存じの『吾輩は猫である』です。実際に漱石先生の家では猫を飼っていました。これをモデルに書いたのが同作で、ただし夏目家の家は黒猫、しかも肉球まで黒い、上から下まで真っ黒なネコでした。
もともと、このネコは何度追い払われても夏目家に侵入する野良猫でした。夏目家に出入りしていたマッサージ師(あんま師)が漱石先生の奥さんの鏡子さんに「足の裏まで真っ黒な福猫ですよ」と助言して、そのおかげで夏目家で飼われることになりました。
ところが、最後まで黒猫には名前が付けられませんでした。それだけではありません。黒猫が死んだ後も夏目家では二匹、ネコを飼っているのですが、この二匹にも名前は付けませんでした。夏目家のネコは「名前はまだない」がずっと続いたのです。
しかし、漱石先生がネコをかわいがっていなかったわけではありません。福猫とされた黒猫が死んだときには、
「この下に稲妻起こる宵あらん」
という一句を作り、その死を悼んでいます。
弟子から慕われた人だった!
漱石先生は「来る者拒まず」で慕ってやって来る若者を受け入れてくれる人でした。そのため、大変に弟子に慕われ、漱石先生門下には、松根東洋城、寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、安倍能成、阿部次郎、松岡譲、久米正雄、芥川龍之介という錚々たるメンバーがそろいました。
久米正雄と芥川龍之介は漱石先生からすると晩年になってからの弟子ですが、
「無暗にあせつては不可(いけ)ません。ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です」
と手紙に書いています。
「世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません」
と根気よく努力することを説いています。漱石先生は、若い才能を励ますために言葉を惜しみませんでした。