【連載】『あの人の学生時代。』 ♯5:高須クリニック院長 高須克弥 2ページ目
「勉強はあまりしなかったよ」といいつつも……
――大学時代、勉強のほうはいかがでしたか?
そうだね、大学1、2年生のときはあんまりしなかったなあ。マージャンばっかりやってたよ。専門教育になるのは3年生からだもんね。
――勉強をしていないとのことですが、学生時代に書いた「幻肢」(英語で「phantom limb」)「幻肢痛」(英語で「phantom pain)に関する論文が『脳神経学 』誌に掲載されていますよね。
先生に勧められたテーマがどれもおもしろくないし、そういうのを扱うと僕なんかよりもはるかに知識を持っている人が批判してやろうと思って手ぐすね引いて待っているわけ。だから、みんなよく知らないものをやってやろうと思っていました。
雑誌に載った後で僕の論文(※)を先生に見せたら、「俺にはわからない。精神科の先生と一緒に読む」と言うの(笑)。結局、生理学の先生も一緒に3人がかりで評価して認めてもらった。みんながよく知らないことをやったのがよかったの。
※高須院長の論文:左足を切断した患者が、もうない左足のかかとを痛む様子から「ないはずの脚をなぜ痛むのか?」ということに興味深く思った高須院長。なぜ痛むのかのメカニズムを生理学的アプローチから迫った論文は、懸賞論文に応募して評価され、見事に『脳神経学 』誌に掲載された。結局、この論文は博士論文を先取りしたものとなり、担当教授が研究テーマをくれる前に先に論文は掲載され、後で論文を教授方が審査するという形になった。
ドイツ留学で最先端の技術を見て、美容整形外科医の道へ
↑1969年、医局時代の高須院長。
――高須先生は大学院のときに留学されたという話を聞きましたが……
はい。1972年にキール大学に行きました。
――留学のきっかけは何だったんですか?
交換留学だったんですよ。でもね、ドイツからは誰も来ない(笑)。日本なんかに先端技術があるもんかって来ないんだよ。一方で日本からドイツに行く方に空きができたので「お前行かないか?」となった。大学院生で時間があったからね。それにもう論文はできちゃっていたから。
――留学はいかがでしたか?
大変参考になりました。まだ日本には入ってきていない整形分野の技術を見られましたから。これを生かそうと思いましたね。
――そのときに海外で見たものが、その後の高須先生の基礎になったのでは?
いいとこ取りだね(笑)。キール大学には3カ月だけしかいなくて。いいもの(技術)があると聞けば、イギリスの田舎の大学まで足を運んだりね。
そうそう、イスラエルで国際学会が開かれたので、行ったらそれが「テルアビブ空港乱射事件」(1972年5月30日)の翌日だった。空港は銃弾の弾痕だらけ、ガラスが散乱してひどい状況でしたよ。学会には当然かもしれないけど日本からは誰も来ていない。女房と僕だけしかいないの。仕方がないから日本代表になっちゃった(笑)。……というぐらいあちこちに行っていろんなものを見ましたよ。
――すごい経験をされて、今の人生があるのかもしれませんね!
少ない人数のほうへ行くことが成功の近道
――現役の大学生にアドバイスをお願いできますか?
成功したかったら「逆張り!」ということですね。こないだ「美容整形で高須先生の後に続きたい」なんてツイートがあったけれども「バカなことを言うな」とたしなめましたよ。美容整形の医者なんか今たくさんいるんだから。みんなが行くところに行ってもだめですよ。
「負け組が多くて、勝ち組が少ない」んだから、成功したかったらみんなが行かないところへ行かないといけない。少ない人数のほうへ行くことが成功する確率を上げることですよ。
――ありがとうございました。
高須院長が、現役大学生のみなさんに一番伝えたいメッセージは、「人生逆張り」。大学院時代の論文、アイスホッケー部の創部、整形外科という分野を選んだこと、これらは「人の行かないところへ行く」という高須院長の信念によるものなのでしょう。高須院長はときにまるでいたずらっ子のような、底抜けに明るい笑顔を見せることがあります。思わず周りも釣られてしまうような、まさに「破顔一笑」という感じですが、そんな笑顔の一方で確固たる信念をもって行動している高須院長。その人間力の根っこは学生時代に培われたのではないでしょうか?
<プロフィール>
たかす・かつや
●1945年、愛知県出身。東海高校から昭和医科大(現:昭和大学医学部)に進学。高須クリニック院長を勤める。⇒『高須クリニック』公式サイト
(高橋モータース@dcp)