大学生になったのを期に、大阪で一人暮らしをする。新居を前に、不動産屋で受け取った鍵を鍵穴に差し込み……|エッセイ企画「#Z世代の目線から」キーワード:ほっとするもの
エッセイキーワード:ほっとするもの
エッセイタイトル:『郷の匂い』/著者:久保獎太朗 さん
大学生になったのを期に、大阪で一人暮らしをする。新居を前に、不動産屋で受け取った鍵を鍵穴に差し込み左に回す。ドアを開けると、それまで閉ざされていた部屋の中の空気が出口を見つけ一斉に吹き込んでくる。空気の動く流れを感じる。鼻腔に感じる匂いは、新建材やビニールクロス、そして接着剤から出る化学物質の匂い。いわゆる、新築の匂い。少しキツイ匂い。でも、これから新生活を迎える僕にとってはうってつけの新しい匂いだ。弾む僕の心を軽やかに支え、後押しし、景気付けしてくれるそんな匂い。
キャリーバックを引く。新大阪を出て博多へ向かう新幹線。博多で降車する僕を迎えるのは豚骨の匂い。高校の部活終わりに友達と通った地元のラーメンの匂い。汗の匂いに混じった当時の空腹までもが思い出される。
在来線に乗り換え実家を目指す。電車は郊外に向け走り出す。窓に映る街並みは、うたた寝の前に、藁塚に変わっていた。換気用に開けられた窓から忍び込んでくるのは秋田刈る稲の匂い。イチョウの葉の湿っぽい匂い。実りを果たした植物の匂い。小学校の帰りに潰した銀杏の匂い。旧友の笑い声が聞こえてくるようだ。
駅を出て、所々舗装がはげた道を歩く。穴に縁当たる度に、キャスターがゴトンと大きな音を立てる。キャリーバックを持つ手が引っ張られる。家までの街並みはそんなに変わっていないはずなのに、少しの間離れただけでよそよそしいものに思えてしまう。自分がよそ者になってしまった不安を覚える。
何百回、何千回とくぐった実家のドアを前にする。すっかり色褪せて少し黒ずんだ鍵を鍵穴に差し込み左に回す。少しの間、目をつむりドアを開ける。帰郷した僕を最初に迎えてくれるのは、両親でもなく、愛犬でもなく、どこか懐かしい実家の匂い。牛乳とコンソメをたっぷりと使ったシチューの甘い匂い。柔らかに包み込む藺草の匂い。少し剥がれかけたフローリングの匂い。出て行った時とまるっきり変わらない匂いに先ほど感じた不安は一抹のものであったと訂正する。
嗅覚からの情報は記憶を司る海馬と連絡しているから、匂いと記憶の結びつきは深いらしい。安心できる空間の匂いは、その時の記憶をくすぐり出し安らぎを与えてくれる。僕がこれまで経験してきたことは、匂いと一緒に記憶の中にしまいこまれているし、これから経験していくことは、その時の匂いと一緒に僕の中に蓄積されていくのだろう。いつかは僕の新居の匂いも安らぎを孕む時が来るのかもしれない。
でも、それはまだ先のことなので一人寂しいときは、郷の匂いを探すことにしている。それはクローゼットに仕舞われた洋服の芳香剤の匂いかもしれないし、実家から送られてきた料理を温め直している時の匂いかもしれない。
著者:久保獎太朗 さん |
学校・学年:大阪医科薬科大学 3年 |
Twitter:@OMCbungei |
著者コメント:ほっとするものというテーマから敢えて実態のない「匂い」まで発想を飛ばしました。一人暮らしを始めてすぐホームシックになった時の経験を思い出しながら執筆しました。どこか懐かしい匂いがしました。 |