【偉人の学生時代】「坊っちゃん」の夏目漱石は、こんな大学生だった! 「建築家の道を断念」
「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」などの文学作品で知られる夏目漱石。お札の肖像にもなるなど偉人とされている夏目漱石ですが、大学生時代など若かりしころはどんな青年だったのでしょうか? 今回は、偉人・夏目漱石の若かりしころのエピソードを紹介します。
●友人の大議論を聞いて建築家の道を断念
学生時代の漱石は建築家になることを夢見ていました。しかし同級生の米山保三郎に、「日本ではどんなに頑張ってもセント・ポールズの大寺院のような建築を残すことはできない」といった話を聞かされ敬服。さらに「建築よりも文学の方が生命がある」と言われたことで、文学者になることにしたのだそうです。もし米山保三郎がいなければそのまま建築家になっていたかもしれませんね。
●2畳間に友人と二人で住んでいた
大学予備門時代、漱石は虫垂炎になってしまい、その影響で進級試験を受けられませんでした。そこで同じく落第した同級生の中村是公に誘われ、塾講師の仕事を始めます。このとき、塾の寄宿舎を借りることになったのですが、部屋の広さはわずか2畳しかありません。漱石と是公はこの部屋にしばらくの間二人で暮らすことになりました。3畳間だったという説もありますが、いずれにせよ狭かったのは変わりありません。
●正岡子規から「漱石」のペンネームをもらう
大学予備門時代の同窓生に俳人の正岡子規がいました。子規による文集の批評を漱石が書いたことから交流が始まり、二人は友情を育みます。「漱石」というペンネームは子規が持つ数多くのペンネームの一つでしたが、後に漱石は子規からこのペンネームを譲り受けることになりました。
●正岡子規の卒業証書を代わりに受け取る
大学予備門時代、漱石は友人の正岡子規の「卒業証書」を代理で受け取っています。当時、子規は地元の松山に帰っており、卒業式に参加しなかったそうです。ちなみに漱石と子規は共に帝国大学(現:東京大学)に入学しましたが、次第に子規は学校に来なくなり落第。最後は学校をやめてしまいました。
●「方丈記」の英訳をする
帝国大学に入学した漱石は優秀な成績だったため特待生に選ばれます。その後J・M・ディクソン教授から『方丈記』の翻訳を依頼されました。翻訳された方丈記は『日本亜細亜協会』の例会で朗読披露されました。漱石の英語力がいかに優秀だったのかを物語るエピソードです。
●教師に錠前師と間違えられる
新任の外国人教授のオーガスタス・ウッド氏を迎えるために帝国ホテルを訪れた漱石。部屋に入ると、漱石はウッド氏からかばんを渡され早く鍵を開けるように言われます。実はこのときウッド氏は壊れたかばんを開けるために錠前師を待っており、部屋にやって来た漱石を錠前師と間違えたのでした。
●田んぼの稲を初めて知る
帝国大学時代に友人の子規と早稲田周辺を散歩していた漱石。そこで見知らぬ青い草を見つけ、子規に「これは何か」と尋ねます。実はこの青い草はお米が採れる稲。子規は漱石が稲を知らないことに驚き、随筆『墨汁一滴』の中で
「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」
と残しています。
●大学在学中に他大学の講師をして学費を稼ぐ
帝大時代の漱石は、学費を自分で稼ぐために東京専門学校(現:早稲田大学)で英語講師の仕事を始めます。いわゆるアルバイトですね。漱石は自分の受け持っている講義が終わった後は、そのまま学内で聴講したという話もあります。
●学友がすごいやつばかりだった
漱石の大学予備門時代、そして帝国大学の同窓生は正岡子規以外にもすごい人がたくさんいました。2畳間で同居していた中村是公は後に満州鉄道の総裁になり、狩野亨吉は第一高等学校校長や京都帝国大学の初代学長になるなど、後の大物ばかりだったのです。
夏目漱石の学生時代のエピソードをご紹介しました。友人と同居したり、他大学の講師をしたり、かなりのびのびとした学生生活を送っていたようですね。他にも漱石は大変なかんしゃく持ちだったそうで、大学を出てからはすぐに怒るというエピソードが数多くあります。こちらも大変に興味深いものなので、機会があれば調べてみてください。
(中田ボンベ@dcp)
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