「勝海舟と仲が悪かった」「船酔いしない!」慶應義塾大学の創始者・福澤諭吉の知られざる伝説9つ 2ページ目
●「桜田門外の変」を当てた!
アメリカから戻った福澤諭吉は、上陸後に「何か日本で変わったことはなかったか?」と出迎えに来た人に聞きました。すると「大変なことがあった!」という返事。そこで福澤諭吉は、みなまで言わせず「それは、水戸の浪人が掃部(かもん)様(大老だった井伊直弼のこと)の屋敷に暴れ込んだといったことではないか?」と、ずばり「桜田門外の変」を言い当てたのです。どこかで情報を得たのでなければ(笑)、鋭い予測能力があった証拠といえるでしょう。
●大砲の音なんかには負けない!
幕末の上野戦争の際、福澤諭吉は塾で講義をしていました。上野戦争は、上野にこもった彰義隊ら旧幕府軍を、薩長を中心とする新政府軍が攻めた戦いです。激烈な戦闘が展開されたため、砲声が塾にも届きましたが、福澤諭吉は平然と授業を続けたそうです。この有名な逸話は、手塚治虫先生の漫画『陽だまりの樹』にも描かれています。
●太陽暦導入の際に小冊子で説得!
明治時代には、それまでの太陰太陽暦から太陽暦が導入されました。それはいいのですが、「明治5年の12月3日をもって明治6年の1月1日にする」というむちゃなもので、しかもこれが発表されたのは明治5年の11月9日でした! その上、政府は広報活動を何もしていないばかりか、新暦も満足に提供できないという有様でした。そこで、福澤諭吉は「改暦辨」という、新暦の良さを分かりやすく解説した小冊子を発表します。わずか6時間で書き上げたという伝説がありますが、この小冊子は大変に売れたそうです。
●勝海舟と仲が悪かった!
福澤諭吉と勝海舟は咸臨丸に乗って一緒にアメリカまで行っていますが、二人の仲はあまり良くなかったようです。福澤先生は明治34年に「瘠せ我慢の説」という論文を新聞に発表し、その中で勝海舟を批判しています。勝海舟は「諭吉は10年ほど前に来たきりで、来ない。大家になってしまいましたからね」なんて言っています。「ほらをふく沢、うそをいう吉」なんてやゆされた二人でしたから、どっちもどっちだったのかもしれません。
●勝海舟に借金を申し込んで断られる!
福澤諭吉は勝海舟に借金を申し込んで断られたことがあります。慶應義塾の経営がうまくいっていなかった福澤諭吉は、勝海舟にお金を融通してほしいと言います。しかし、勝海舟は「君は三田の土地を持ってるじゃないか、それを売却してそれでも駄目だったら相談に乗る」と断ったのです。福澤諭吉は三田に1万4,000坪もの土地を持っていた(政府から払い下げられた)のですが、その土地を大変気に入っていたため、それを温存してお金を借りようとしたのです。ちょっと虫のいい話ですよね。
福澤諭吉の『福翁自伝』には面白いエピソードがめじろ押しです。上記の「船酔いしなかった」はあくまでも自己申告なので、本当はみんなのいないところでゲーゲーやっていたのかもしれません(笑)。もし興味があったらぜひ読んでみてください。
(高橋モータース@dcp)