「ずっと必死に生きてきた」。亡命、差別、無国籍を乗り越えた渋谷ザニーさんがファッションデザイナーのキャリアを得るまで

8歳の時に軍事政権下のミャンマーから日本に亡命してきた、ファッションデザイナーの渋谷ザニーさん。自宅が銃撃され、ベッドの下に身を潜めていたおかげで命拾いしたという壮絶な過去があります。日本語が流暢に話せるようになっても、外国人として差別も経験したザニーさんは「必死に生きてきた」と話します。華やかなキャリアを手にするまでの軌跡や現在の奮闘ぶりについて伺いました。
PROFILE
渋谷 ザニー
◉――1985年1月1日生まれ。ファッションデザイナー。1993年8歳の時に、政治的な弾圧から逃れ家族で日本に亡命。大学では国際関係学部でアメリカン外交を専攻する。大学在学中に雑誌モデルとしてデビューし、卒業後はファッションデザイナーに。2011年には自身のブランド「ZARNY(ザニー)」を創設し、映画やドラマの衣装、K-POPアイドルから内閣総理大臣夫妻、皇室の衣装も担当する。
▼INDEX
1.ファッションの力。幼少期は自己防衛だった
2.両親と交わした契約書を破って自由になった
3.日本に帰化したきっかけは911同時多発テロ
4.「冷静じゃないですよ。毎日、必死です」
5.まだ戦える「8歳の自分と常に対話しています」
ファッションの力。幼少期は自己防衛だった
――ザニーさんの現在のお仕事について教えてください。
大学生の時から始めたファッションデザイナーの仕事を現在もやっています。最近は洋服以外にも、那須塩原のリゾート開発に関わり、インテリアや装飾周りのデザインに注力しています。時々テレビにも出させて頂いておりますね。

――幼少期からファッションを大切にされてきたそうですね。
1993年に日本に来て、半年ほど学校に通えなかったんです。知り合いもいなかったので、通う術が分からなくて。でも、地域の方たちが区議会議員を説得してくれて、3年生のクラスに編入することができたんです。
日本語はまったく分からないし、ひらがなや漢字も1、2日で覚えられるわけじゃないので、自分の身だしなみに気を配りました。Tシャツには毎日アイロンをかけて、スニーカーは帰宅したらすぐに磨く。上履きもいつもきれいに保っていました。どうやったらクラスに受け入れてもらえるか、いじめられないで済むかを、8歳ながら必死で考えていたんです。
――自己防衛としてのファッションだったんですね。
ファッションに救われたところはありますね。何を着るかは重要じゃないって言う人もいますが、ファッションを味方につければ、もっと成功できる人がいると僕は思っています。
デートだってそう。相手を不快にさせないファッション。服は相手のために着るものでもあって、それで関係もうまく調和されるんだろうと思います。
両親と交わした契約書を破って自由になった
――大学生活はどんな目標を持って過ごしましたか?
高校卒業後は服飾かデザインの専門学校に行く夢があったんです。でも、両親の願いは僕が4年制の大学に行くことでした。当時、親子で契約書を交わしたのをよく覚えています。
僕は専門学校の夢は諦めて、親の希望であった4年制の大学に進学する。そして親の希望だった留学もする。帰国後20歳以降の僕の生活には一切、口出しをしない。就職先も職種も、僕が自由に決めるという内容でした。
一人っ子だったというのもあり、僕をコントロールしがちな親だったんですよ。もちろん、僕の幸せを願ってのことなんですけど。契約したことに対して責任も生まれますから、今思えばいい教育だったと思います。20歳になって「これで自由になったー!」って契約書を破りましたよ(笑)。
――就職活動について教えてください。
今でこそ外国籍の人は日本にたくさんいますけど、当時は本当に少なかったんです。たとえばガソリンスタンドのアルバイト面接に友人と3人で行ったときなんて、僕だけ「作文を書け」ってその場で指示されたんですよ。日本語力を試したんだと思いますけど。
中学の弁論大会で優勝するくらい日本人学生より国語が得意で日本語は流暢に話せたし、高校でも国語の成績は良かったんです。なのに、作文を書いても、僕だけ面接で落とされました。結構それがトラウマになって。就職でみなと同じようにエントリーシートを書いても、きっと僕は落ちるんだろうなって考えてました。
そして、いざ就職活動の時期、僕は先駆的な企業の一つであるエイベックスの中の洋楽部 ヴェルファーレのマネジメントをしたいと思い、そのために一生懸命エントリーシートを書きました。それこそ、絶対に落ちるはずないと思うほど。
ところが、自信のあったエイベックスにも落ちてしまったんです。その時は、本当に悔しかったです。ただ、後から分かった事だったんですが、この選考落ちは、これまで抱えていたトラウマが原因ではなく、僕のミスにあったんです。
というのも、志望していた事業部が、僕が学校を卒業する年の10月にクローズになる事を知ったんです。ちょっとでも調べたらすぐ出てくる情報を、僕が調べきれなかったんです。
当時、エイベックス以外で働きたい企業がなく、就職活動のタイミングではエイベックスで働く事が叶わなかったため、僕は自分の中に残っているファッションの道へ進む事を決めました。ストリートスナップの撮影や雑誌掲載等ファッションの道を駆け出していたそんな時に、僕を見つけてくれたのがなんとエイベックスだったんです。その後、縁があってファッションを通じて一緒に仕事をする関係になりました。
時代がそのポイントでなかったとしても、数年後数十年後にタイミングはくる事を身をもって体験した事で、「いかに自分が信じたものを貫き通すか」が大事な事に気付きましたね。
日本に帰化したきっかけは911同時多発テロ

――20歳の時に「渋谷ザニー」という名前を名乗り始めたとお聞きしています。
2004年19歳、大学2年の時にアメリカのワシントン州に留学したんですけど、休みの日にニューヨークを訪れて、ワールドトレードセンターが崩壊した跡地に行きました。ニューヨークの人たちの表情は暗く、でも何とか生きようとしていて、怒りに似た力強さを感じました。それが、幼少期のミャンマーと僕の中でリンクしたんです。
――2004年と言えば911のテロから3年後のことですね。
そういう現実を目の当たりにして、自由と平等の国アメリカと言われていたけれども、当時の日本の方が平和でチャンスもいっぱいあるんだっていうことに改めて気づきました。だから、その恵まれた日本の環境で思いっきり生きようと思ったんです。渋谷の街を拠点に活動していく中で全部カタカナの名前から20歳になり「渋谷ザニー」に変えて、日本への帰化を希望し国籍を取りました。
軍事政権から逃れて日本に亡命したり、無国籍の状態だった僕の経験はもちろんすごく特殊なんですけど、周りと同じスタートラインに立つこと自体が難しかった僕のような人間もいるから、これを読む若い方たちには、僕の半生を通して「自分自身はこの国で恵まれた環境にいるんだな」と思っていただいて、堂々と誰にも遠慮なく人のため、世のため、自分のためになることを成し遂げてほしいですね。
「冷静じゃないですよ。毎日、必死です」
――モデルからファッションデザイナーになった経緯を教えてください。
ファッションの専門学校に行けなかったので、必死でした。当時はInstagramとかTikTokはもちろんなくて、ストリートを歩いてるとスナップ写真を撮られる時代だったので、好きなファッションを着て渋谷の街を歩いたり、クラブに行ったりして、ファッション業界の人を相手に自分を売り込みました。営業です。それがきっかけで、雑誌モデルに採用されたんです。
渋谷ザニーっていう名前もキャッチーだったんだと思います。フラッシュを沢山浴びて、最終的には渋谷109メンズ館のビルボード広告にも大々的に採用されました。大学卒業後はファッションデザイナーとして活動を始めて、フリーランスとしていろいろな企業と契約しました。
▼ファッションデザイナーとして活躍の幅を広げる様子(ブライダルコレクション)
――ザニーさんは環境のせいにせず、ピンチやハンデをチャンスに変えてきた印象がありますが、それは意識されていることですか?
ピンチをチャンスに変えるって感覚は本当にないんですよ。そんなに冷静じゃなくて、ずっと必死なんです(笑)。今でも必死です。明日をどう迎えればいいんだろう。一ヶ月後は?半年後は?って。常に慎重にネガティブな予想をしつつ、交渉を続けてきました。
――交渉とは具体的にどういうことでしょう。
人生ってネゴシエーションやプレゼンだと思うんですよ、常に。大学の進路を決めるために両親と交渉したのもそう。就活も面接もそうですよね。プレゼンじゃないですか。
社会に出たらしょっちゅうプレゼンですよ。自分のアイデアが採用されなきゃいけないし、勝っていかなきゃいけない。僕の履歴書を見せると「素晴らしい経歴ですね」って言われますけど、その倍、失敗してきた交渉があり、プレゼンがあったんですから。僕に表現力がもっとあれば、もっとうまくネゴシエーションできたのにって思うこともあります。
まだ戦える「8歳の自分と常に対話しています」
――華やかな経歴の背景に、後悔や失敗があるんですね。
悔しい思いや挫折はたくさんありましたよ。自分がプレゼンした企画なのに、僕が知らない間に製品になっていたこともあります。18年も社会人でいると、そういう現実を恐ろしいくらい見ます。裏切られたことは悔しいですが、その企画が採用されたってことは自分は間違ってなかったわけだから自信にもなりました。僕の浅いキャリアに説得力が足りなかったっていうのも事実ですし。
挫折といえばコロナ禍もそうですよ。今もつらい時期なんです。会社の売上を出さないと、今の社員をこれからも仲間として雇用していけない。いろいろな挑戦をしていかなければいけません。新しいプロジェクトにも取り組んでいます。今も毎日必死なんです。
――辛いことや大変な時にザニーさんの原動力になっていることは何ですか?
常に過去の自分ですね。大変な国に生まれて自宅が銃撃されて、日本に亡命した。日本にきてクラスメイトにどう受け入れられ、選ばれる存在になるのか。毎日、Tシャツにアイロンをかけ、靴を磨く。8歳の僕のあの覚悟と、今も常に対話してますね。過去の自分の挑戦を思い出して、まだ、戦えるという力を呼び起こしてますよ。
次回は、学生さんからのリアルな悩みに回答する対談記事を大公開!
▼渋谷ザニー各SNS
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取材・文:ぎぎ まき
編集:学生の窓口編集部



























