慶應大学の創設者! 福沢諭吉クイズ、何問わかりますか?
突然ですが、福沢諭吉クーイズ!! 慶應大学の創設者であり、いまだに塾生のアツ~いリスペクトを一身に受けている福沢諭吉先生。入学時、全塾生に福沢諭吉の自伝『福翁自伝』が配られるといいますから、福沢先生のことには詳しいはず! そこで日吉キャンパスを歩く学生に以下8問の「福沢諭吉クイズ」を出題しました!
Q1.「天は人の上に人をつくらず……」で始まる福沢諭吉の著作は?
A1.『学問のすすめ』
小学校の歴史でも習う、とても有名な著作です。ちなみにこの本には、「人は生まれながらに平等といわれているのに、現実には大きな差がある。その差は何かというと、学問を修めているかどうかの違いなんです」といった主旨の内容が書かれています。
Q2.大阪で生まれた福沢が3歳のとき移り住んだのはどこ?
A2.中津藩(現在の大分県中津市)
福沢諭吉の父は、中津藩の下級武士で、大坂の蔵屋敷に勤めていました。蔵屋敷というのは、中津藩の米や物産品を売るために大坂に置いた拠点のことです。3歳のときに父が死んだため、一家の本拠地である中津へ帰ったというわけです。
Q3.中津に移り住んだものの、なかなかなじめなかったと語る福沢。その理由は?
A3.方言とファッションの趣向が違うから
大阪生まれの福沢は、いわば都会からの転校生です。現代以上に文化の違いは激しかったでしょうから、なかなかなじめなかったのも納得できます。たとえば、大阪では「そうでおます」といっていたものを中津の人は「そうじゃちこ」と言うので話がかみ合わないといっています。髪型や着物などのファッションも趣向も違っていたようで、「なんか浮いてるからイヤだ……」と兄弟とばかり遊ぶようになったそうです。偉大なる福沢先生も、結構シャイだったんですね。
Q4.大阪へ戻ってきた福沢諭吉が入門した蘭学の塾といえば?
A4.適塾
長崎で1 年間、蘭学を学んだ福沢は次に江戸へ行こうとします。しかし、兄に「江戸へは行かず、大阪で蘭学を学びなさい」と説得され、大阪の適塾で緒方洪庵に師事することになりました。