【朝日新聞の先輩社員】社会部 記者:國吉美香さん
2010年4月入社、北海道報道センターに配属。2011年5月盛岡総局、2013年4月京都総局、2015年5月東京本社に異動。その後、2015年9月からは警視庁担当として、記者クラブに所属。
日本の三大紙のひとつ「朝日新聞」の社会部で、日夜事件や事故を取材している國吉美香さん。一見華やかに見える仕事の裏側には、地道な取材や新聞記事として世の中に発信する責任感の重さなどが隠されています。今回はそんな朝日新聞社の記者として働く國吉さんに、社会部の新聞記者というお仕事と、記者になるまでの歩みを伺いました。
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今のお仕事はどんな内容?
今は警視庁担当として、記者クラブに所属しています。東京都内で発生する殺人や誘拐などの凶悪事件を担当する捜査1課、連続窃盗事件などを担当する捜査3課、外国人犯罪事件を担当する組織犯罪対策2課が扱うような刑事事件について取材をし、記事にしています。
基本的には事件や事故が起きると、警視庁から「記者発表」という形でその事件・事故に関する公式な発表があるのですが、そこで聞いた話だけでは記事は書けないので、やはり自分たちで取材をしなければなりません。そのために「朝駆け」「夜回り」といって、朝一番に出勤を待ったり、夜の帰りを待ったりして、その事案に関わる警察関係者などに話を聞きに行きます。朝早く行っても話を聞きたいと思っていた相手に会えない場合もありますし、反対にうまくいけば複数の関係者に会えることもあります。そのように自分たちで取材したこと元に記事にするのが私の仕事です。ただ、事件や事故がなければ、みんなでテレビのニュースをチェックしながら、ゆっくりできることもあります。
一番楽しかった&つらかった仕事は?
2010年に入社して最初に配属されたのが北海道でした。その後、東日本大震災が起きた2011年に岩手に異動になりました。できるだけのことを取材しようと走り回っていましたね。そんな中、岩手に赴任して2年目のとき、検視に携わる方々から震災の犠牲者のご遺体が取り違えられて別の遺族に引き渡されていたという話を聞きました。当時は、それがニュースになるかどうかわからなかったのですが、ご遺族たちの喪失感や、「じゃあ自分の本当の家族はどこにいっちゃったんだろう」という思いを考えたら、やっぱり書いたほうがいいのではないかという気持ちになりました。
一方で、県警記者クラブで警察取材もしていたので、岩手県警の方々の中には家族や友人が行方不明のままなのに県民のために業務にあたったり、全国から応援にかけつけた警察官と一緒に、毎日、毎日、真っ暗な沿岸で交通整理をしたりしているのを見ていたので、単純に県警のミスとして取り違いを責める気にはなりませんでした。この事実を全てデスクや先輩に相談したところ、ただ取り違えが起きたという事故を記事にするのではなく、どのように遺体照合が行われ、なぜ間違いが起きてしまったのかも取材して記事にすることになりました。その結果、一面には取り違えの記事を、同じ日の社会面は仙台の先輩記者が協力してくれて、取り違えが起きた背景などを掘り下げた記事を、それぞれ掲載することができました。
もし一面の「取り違えが起こった」という記事だけを出すことになっていたら、自分としては中途半端な気持ちになったと思いますが、内部の事情をきちんと伝える記事を書かせてもらえたことはありがたいと思いました。まだまだ新米記者だった私は怒られてばかりでしたが、実直に向き合っていれば、たとえ都心部でなくても全国のニュースとなる記事を書かせてもらえるんだと思い、うれしかったですね。
その反面、その記事が及ぼす影響力などを考えると怖くもなりました。何回も原稿を見直して、デスクにも何度も原稿を確認してもらい、校了するまでずっと気持ちが落ち着かなかったことを今も覚えています。
自分の書いた記事が世の中に影響を及ぼすことにはやりがいを感じると同時に、責任の重さも実感します。あのときに感じた「怖さ」のようなものを、これからも忘れないようにしたいと思っているので、このときの経験は私の記者としての原点です。
今の会社を選んだ理由は?
本当は大学卒業後、大学院に進み、資格を取ったら地元の沖縄に帰ろうと思っていました。でも、所属していたゼミに新聞社に就職した先輩がいて、話を聞いているうちに「おもしろそうな仕事だな」と新聞記者に興味を持つようになりました。もともと私は飽きっぽい性格なので、就職するとしても変化がある仕事がいいなと思っていたんです。その先輩の話を聞いていても、マスコミの仕事は常に変化があって楽しそうだなと思えたので、それが大きな理由のひとつですね。