映画監督になるにはどんなルートがある? あの名監督の経歴から知ろう
映画が好きな人なら、「自分でも映画を監督してみたい」と思うこともあるでしょう。しかし、商業映画の監督になるのは非常に難しいことです。特に多くの劇場で公開される映画の監督になるのは至難の業です。今回は(実写)映画の監督になるにはどうすればいいかについてご紹介します。
異業種から映画監督にオファーされる人も増えているなど、映画監督になる方法もいろいろです。どのような人が、どのようなパスを通って監督になったのかを見てみましょう。
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■昔ながらのパス、助監督から映画監督に!
かつては映画はエンターテインメントの最高峰でした。各映画会社が映画製作スタジオを持って大量のスタッフを雇用していた時代があったのです。そのころは、映画監督になるには、まず演出部に入って助監督を務め、映画の製作・演出について修業するのが一般的でした。その後に映画監督として指名されるのを待つのです。
助監督といっても、サード⇒セカンド⇒チーフと、経験・力量によってその地位は分かれています(サードの下にフォースがいることもあります)。チーフの助監督になって、やっと次の監督への道が開けるのです。このようなスタジオの育成システムが機能していた時代には、まず助監督になってサードから修業を始めることが監督になる第一歩でした。
現在でもその名残がありますが、映画監督になるのにまず助監督、という道はかつてのように唯一のものではなくなっています。異業種出身の新人監督、またテレビ業界出身の監督が映画監督を務めることが多々あるため、映画製作たたき上げの助監督が補佐でらつ腕を振るう、ということも珍しくありません。
『無限の住人』(2017年)など多くの映画で監督を務める三池崇史さんは、今村昌平さん、西村潔さん、村川透さんなどの監督の下で助監督を務めました。その仕事の中で手腕を見いだされ『新宿黒社会』(1995年)で劇場用オリジナル映画初監督となります。多作で知られる三池監督ですが、助監督として働いた経験が八面六臂(ろっぴ)の活躍の原動力となっているのでしょう。
■コンテストから映画監督に!
映像作家としての才能を発掘するためのコンテストに自主映画を撮って応募し、そこで評価されるというのも映画監督になる方法の一つです。
新人発掘を目的とする最も有名なコンテストは『ぴあフィルムフェスティバル』(Pia Film Festival)です。現在まで続くこの歴史あるコンテストは、1977年の『第一回ぴあ展』内で行われた「第一回自主映画展」に始まります。
「PFFアワード」入選者として評価され商業映画の監督に進んだ人の中には、石井聰亙さん、森田芳光さん、黒沢清さん、中島哲也さん、園子温さん、塚本晋也さんなど、そうそうたる人が並びます。このコンテストで入選することは、映像業界で注目を浴びることでもあるのです。