歴史の豆知識! ロクなことがなかった、後醍醐天皇の失敗政策まとめ

学生の窓口編集部
2015/07/21
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キリが良い数字で覚えやすいためか1333年「建武の新政」と、それを行った後醍醐天皇の名前を今でも記憶している人は多いのではないでしょうか。さて、この建武の新政がものすごい失政だったのをご存じでしょうか。

■陰謀が大好きだった!?

後醍醐天皇は、どうも陰謀が大好きな人だったようです。建武の新政にたどり着くまでに、さまざまな謀略を駆使しています。

もともと後醍醐天皇は、後二条天皇の遺児・邦良親王が成人して皇位に就くまでの中継ぎ役でした。しかし、自分の子孫を皇位に就けたいと思い、皇位継承を裏書きしている鎌倉幕府を憎みます。そこから鎌倉幕府を倒すことをもくろみます。

1324年:倒幕計画が発覚。後醍醐天皇自身はセーフ! でしたが側近が処分されます。

1331年:倒幕計画を続行中でしたが密告され窮地に! 京都を脱出!

鎌倉幕府は後醍醐天皇をソッコーで廃位。光厳天皇が即位。

笠置山に籠城した後醍醐天皇は、幕府方に捕まります。

1332年:捕らわれた後醍醐天皇は隠岐島に流される。

1333年:隠岐島を脱出! 足利尊氏を味方につけて帰京! 光厳天皇を廃位して、自らの退位を否定!

ここまででも十分波瀾万丈ですね。

■「建武の新政」は失敗ばかりだった!

で、京都へ帰れた後醍醐天皇は新政を開始するわけですが、この新政の内容がひどいものでした。何をしたのかを挙げてみましょう。

・旧領の回復令

⇒昔の持ち主に土地を返せ、という法令でしたが、どこまでさかのぼってもいいのかという話になって大混乱。それはそうでしょう。現在そこに住んでいる人もいるのですから。「人々六七代ノ先祖の本領ドモオ望申」(6、7代も前の先祖の土地を返してくれと望む者まで現れた)という記録が残っているそうです。

・再審令

⇒一度確定した判決の再審議はしないという鉄則(これを不易法といいます)の否定です。これによって確定した裁判が蒸し返されるという大混乱に。

さらには、以前に出した綸旨(りんじ:天皇の意を受けて発行される命令書のこと)の取り消しなどを行ったことからさらにその混乱が拡大します。これにより、綸旨そのものの信頼がなくなってしまいます。

このように、調べてみますと後醍醐天皇はロクなことはしていません。自分が名君であるという意識はお持ちで、また良かれと思って数々の政策を実行されたのでしょうが、それらは頭でっかちの現実に即さないものばかりでした。

武士の不満が高まって、その頭領であった足利尊氏が離反・謀反に及んだのも仕方ないところでしょう。結果、後醍醐天皇は、三種の神器を足利方に渡し幽閉されます。その後、また幽閉場所から脱出、吉野まで逃げて南朝を開きます。

これが南北朝の時代の幕開けなわけですが、北朝に対抗すべく陰謀を巡らせているときに病に倒れ、ついに崩御します。後醍醐天皇は、陰謀に明け暮れた生涯を送った珍しい天皇といえるかもしれません。

(高橋モータース@dcp)

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