東大の創設者・起源って?東京6大学の中でも知られていない東大の歴史を紹介
早稲田大学、慶應大学の創設者やその起源はよく知られていますが、意外にも知られていないのが、東大の起源。
東大は日本初の大学で、その歴史は江戸時代から始まる、実力だけでなく歴史も日本一の大学なのです。
そこで今回は、東大の歴史や創設者を紹介します。
東大の創設者は誰?
東大の創設者は東京大学初代総理の「加藤弘之(かとう ひろゆき)」と覚えておけばいいでしょう。
東大の歴史は古く、歴史上のどの転換点を「東京大学の創設」とみなすかによって創設者が変わります。しかし、東京大学公式HP内の「沿革」では東京大学の創設は明治10年(1877年)4月7日となっており、初代総理が「加藤弘之」となっているため、創設者も「加藤弘之」としていいでしょう。
東大は前身となった学問所があるので、早稲田大学の大隈重信の様な創始者はいないともいえますが、初代総理の「加藤弘之」のことは覚えておいて損はありません。
東京6大学の創設者って?
参考までに東京6大学の創設者について紹介しておきますね。
- ・早稲田大学:大隈重信:1882年設立
- ・慶應義塾大学:福澤諭吉:1858年設立
- ・明治大学:岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操ら:1881年設立
- ・立教大学:チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教:1922年設立
- ・法政大学:金丸鉄、伊藤修、薩埵正邦ら:1920年設立
- ・東京大学:加藤弘之:1877年設立
東京大学以外の5つの大学については、設立者がはっきりしています。詳しい解説については各大学の沿革についてのWebページを見るといいでしょう。
東京大学の総理とは今でいう学長のこと
東京大学では、他大学の学長のことを「総長」といいます。これは、1877年に設立された際に法理文三学部と医学部それぞれに綜理が設置されたことに由来します。
現在の学校教育法では「学長」を置くことが定められているので、総長の正式名称は「学長」になりますが、東大では「総長」と呼ばれています。
参考:東京大学 東大史Q&A Q2-1-1 2.総長・学生・教職員
東京大学初代総理の「加藤弘之」とは
東京大学初代総理の加藤弘之は、明治10年から明治19年までの9年間、総理として初期の東京大学運営に携わった人です。
天保7年(1836年)に但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士の子として生まれ、江戸で兵学、蘭学、ドイツ語を学び、1873年(明治6年)には明六社を結成しています。明六社は、日本最初の近代的啓蒙学術団体です。
また、加藤弘之は、明治23年(1890年)5月には帝国大学(現在の東京大学)の第二代総長になっています。
東大の創設日と歴史について
東大の創設日と大まかな歴史について、東京大学公式HP内の「沿革」を参考にご紹介します。
ーー
東京大学の創設は、明治10年(1877年)4月7日
明治13年8月には大学院の前身である「法・理・文3学部の学士研究科」が設置。
明治19年3月、帝国大学令公布され工部大学校を統合して帝国大学に改組。
明治30年06月、帝国大学を東京帝国大学と改称(京都帝国大学の創設に伴うもの)
昭和22年09月、東京帝国大学を東京大学と改称(帝国大学令等の改正により)
昭和28年04月、新制東京大学大学院設置
平成16年04月、国立大学法人化「国立大学法人東京大学」となる
平成29年06月、指定国立大学法人に指定される
ーー
参考:東京大学 沿革
東大の前身になった学問所とは
東大の創設日は明治10年(1877年)4月7日ですが、それ以前には東大の前身になった学問所が設立されています。
東京大学沿革には、
東京開成学校と東京医学校を合併、旧東京開成学校を改組し、法・理・文の3学部、旧東京医学校を改組し医学部を設置、東京大学予備門を付属
(引用:東京大学 沿革)
とあります。
東京開成学校というのは、江戸幕府により設置された蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を源流としています。蕃書調所は、江戸幕府直轄の洋学研究教育機関のことで、安政3年(1856年)に設置されたものです。
また、東京医学校は、明治時代に東京府に設立された医学教育機関のことです。元々は江戸幕府の医学所を改称したものとなります。江戸幕府の医学所は、文久1年(1861年)に設立された西洋医学校です。
東大が生まれた経緯と流れ
もう少し詳しく、東大が生まれた流れについて紹介するとこのようになります。
実は、東大の前身の学問所は3つあります。上で紹介したのは2つでしたが、影響力が比較的小さかったとされている「昌平坂学問所(=昌平黌(しょうへいこう)」が省略されているのですね。
この3つはどれも江戸幕府により設置されています。「昌平坂学問所(=昌平黌(しょうへいこう)」の設置が約220年前の1797年です。上で紹介した後の東京開成学校である「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」の設置が1857年。種痘所(しゅとうしょ)は東京医学校の前身であり1857年に設置されています。
江戸幕府崩壊後、明治時代になり幕府管轄下にあった3つの学問所はそれぞれ、昌平学校・開成学校・医学校と改称され明治政府が接収し管轄下に入りました。この際、明治政府により3つの学校の総合学園構想案が出されます。
この案は、1869年に実行され、本郷湯島に所在する昌平学校を大学とし、神田に所在する開成学校を大学南校とし、神田和泉町に存在する医学校が大学東校となりました。
しかしその後、学問論争が勃発し洋学重視の方針になり、国学の大学は一度閉鎖となってしまいます。
そして、1877年の西南戦争の勃発時に、残った大学南校、大学東校が統合され、日本初の大学「東京大学」が誕生しました。
その後、東大のキャンパスを設ける為に本郷にあった前田家の敷地を約3年間整備したのです。前田家の敷地面積は東京ドーム約7個分と言われています。
文京区にある東大赤門は歴史的建造物でもある
東大といえば「赤門」を思い浮かべる人も多いと思います。本郷キャンパスにある赤門は、正式には「旧加賀屋敷御守殿門(赤門)」といい、文政10年(1827年)に建立されたものです。
実は赤門はもともと、前田家の大名屋敷の門です。前田家というのは、戦国武将で有名な前田利家が初代藩主である前田家です。赤門は、その当時の名残が今も残っており「国指定重要文化財」になっています。
赤門までのアクセスと本郷地区キャンパスマップ:東京大学 本郷地区アクセスマップ
参考:文京区 東京大学赤門
東大にある赤門以外の門にも深い意味がある
東大には赤門以外にも門が設けられています。その数ざっと10個。深い意味があり、設立当時、外部とは違う空間となり、入門するという意味合いと、勉学に努めるために閉鎖的空間を作り出していたと言われています。
東大の歴史は古く調べるだけでも面白い!
東大の起源について紹介しました。元になる学問所が江戸時代からあり、明治政府の政策によって設立されたものなので、どの時点を設立とするかによって設立者が違うのは面白いですね。
ちなみに東大の至る所にマンホールがありますが、整備された当時のマンホールがあります。東大に行くことがあったらぜひ肌で感じてみてくださいね。