【東京国立博物館】誰にとっても“わかる”展示へ -東洋館がアップデートする鑑賞体験とは?
東京国立博物館「東洋館インクルーシブ・プロジェクト」とは
東京国立博物館・東洋館では、2025年度から「東洋館インクルーシブ・プロジェクト」という新たな取り組みを進めています。これは、視覚・聴覚・身体など、一人ひとり異なる特性を持つ来館者が“自分に合った方法で展示を理解できるようにする”ことを目指したプロジェクトです。
東洋館にはアジアの文化を伝える多様な美術・考古作品が並びますが、「見て読める人だけが楽しめる展示」ではなく、「誰にとってもアクセスしやすい展示」をつくることが大切なのではないか──。そんな問いから、このプロジェクトは始まりました。
・AI音声ガイドの活用
・触って学べるハンズオン展示
・「静かに」から「自然に話していい」鑑賞空間への転換
こうした工夫を組み合わせながら、“誰にとってもわかる展示”づくりを推進。その中心を担うのが、東京国立博物館 学芸研究部 調査研究課 東洋室長・三笠景子さんです。
漢字の“手”をさまざまな書体で触って学べるハンズオン展示。書体ごとに異なる素材を用い、触感から書体の成り立ちを体験
東京国立博物館はインクルーシブが後発。だからこそ、向き合う必要があった
この取り組みを進める理由を三笠さんに伺うと、最初に返ってきたのは率直な言葉でした。
「当館は、インクルーシブな取り組みが後発だという自覚がありました。世界的に見ると、うちは“開かれた印象が少ない”のかもしれない。だからといって、どこにどんな困りごとがあるのか、現場の情報がほとんどありませんでした」
近年、国内外の博物館ではユニバーサルデザインが主流。展示の「わかりやすさ」や「アクセスのしやすさ」は、どの館にとっても重要なテーマです。この状況を変えるきっかけになったのが、昨年導入されたクラウド型音声ガイドでした。
自分のペースで学べる“わかりやすさ”を重視した取り組み
伝え方次第で、展示はもっと“わかる”
スマートフォンでQRコードを読み取って利用するAI音声ガイドは、速度調整・多言語対応が可能で、更新も容易という利点があります。
「制作側にとっても使いやすく、その場で原稿修正ができます。AIが読み上げるので音声録音は不要で、声も男女の選択が可能です」
特に特徴的だったのが「読み上げ速度」と「多言語対応」。
「もともと視覚に障害のある方のために開発されたシステムなので、再生速度を変えられることは大きなポイントでした。また、多言語対応で英語・韓国語・中国語などにも展開できました」
テキストでは文字量に制限がありますが、音声ガイドなら研究員が伝えたい背景やエピソードまで盛り込めます。東洋館では“書きたいことを全部入れる”精神で原稿を整備し、機能を最大限活用しました。
「開期中に河合純一さん(東京国立博物館アンバサダー/パラリンピック水泳金メダリスト/スポーツ庁長官)にお越しいただいて、“とてもわかりやすく、楽しい”と評価していただけました。後日には、別の視覚に障害があるパラアスリートの方も連れてきてくださったほどです」
この経験が、三笠さんに新たな気づきをもたらしました。
「東京国立博物館には盲学校向けのプログラムはあるのですが、研究員として本当にできることは音声ガイドだけなのか……と。“もっとできることがあるのでは”と思うようになりました」
その思いが、東洋館インクルーシブ・プロジェクトへと発展する大きな転機となったのです。
学生と当事者との“見学会”。館内を自由に歩いてもらうところから
とはいえ、始めから完成した構想があったわけではありません。三笠さんが最初に取り組んだのは、「まず東洋館を体験してもらう」ことでした。 協力を依頼したのは、インクルーシブな社会の創造に取り組む福祉コミュニティーラボ、慶應義塾大学SFC-IFC(Inclusive & Future Creation)の皆さん。 また、視覚に障害のある方とそのアテンド(付き添い)の方などを東洋館に招き、館内を自由に見学してもらいました。
「どこが不便か、どんなことに困るか、逆に“ここは良い”と感じるのはどこか。まずは彼らの率直な声を聞くことから始めました」
学生たちの観察力は想像以上に鋭く、
- ここは迷いやすい
- 段差の位置が分かりづらい
- この高さでは触れづらい
- 照明の反射でラベルが読みにくい
など、普段では気づきにくい“使用者の実感”を客観的に指摘。
「視覚に障害があるといっても本当に幅広い。弱視の方にとって“本当の見やすさ”とは何か、考えられていなかった部分に気づかされました」
この見学会が、プロジェクト全体の“羅針盤”となっていきます。
約10名の横断チーム。半年のスピード立ち上げ
プロジェクトが正式に動き始めたのは2025年1〜2月ごろ。そこから秋の「博物館でアジアの旅」会期に合わせるため、わずか半年での実現を目指す“短期集中プロジェクト”が始まりました。
チームは東洋館の展示担当者を中心に、他部署の職員を含めて約10名。それぞれが通常業務の合間を縫って集まり、制作・検証・調整を繰り返しました。
「夏ごろは胃がキリキリする日が多かったです(笑)。でも“アジアの旅”は東洋館にとって一年の大きな節目。そこに合わせて必ず形にする、という共通意識がありましたし、忙しさ以上に“新しい挑戦ができる楽しさ”が勝っていました」
触って学べる“ハンズオン展示”
今回特に注目を集めたのが、漢字の成り立ちを“触って理解できる”ハンズオン展示です。
「作家さんに“1週間でモックアップをお願いします!”と依頼したこともありました。届いた試作品を前に、半田こづえさん(全盲の美術鑑賞研究者)やSFC-IFCの学生さんたちと『ここは触りにくい』『この凹凸の意味が伝わりにくい』と意見を出し合って、何度も改良しました」
ハンズオンは書体ごとに素材を変え、それぞれの書体が育まれた文化的背景まで感じられるように意図してデザイン。
篆書=金属、隷書=石、草書・行書・楷書=木とし、
- 木:大曽根俊輔さん
- 石:冨長敦也さん
- 金属:河内晋平さん(Studio仕組)
と、気鋭の作家に制作を依頼。多様な専門性が結集した“手で読む漢字展示”が誕生しました。
木版印刷の文化背景から、草書・行書・楷書は木で制作。木目の触感とともに、書体ごとの筆の入り・抜きの表情を読み取る
メディアを通じて広がる“インクルーシブの輪”
NHK「視覚障害ナビ・ラジオ」で取り上げられたことをきっかけに、“東洋館に行ってみたい”という視覚に障害のある方からの電話が多数寄せられました。
「若い世代の当事者の方からの反応も大きかったです。“アクセスしづらいと思っていたけれど、音声ガイドがあるなら行きたい”という声をたくさんいただきました」
こうした反響は、三笠さんが以前から感じていた“東洋館は少し敷居が高い”というイメージを変える一歩となりました。
若者が多く訪れる、中韓の博物館
三笠さんは、ご自身の研究活動で中国・韓国に足を運ぶ機会が多く、そこで見た光景は今回の取り組みにも影響しています。
「中韓では同世代の若者が日常的に博物館へ足を運び、展示づくりのアルバイトにも積極的に関わっています。博物館の求人への応募も多い。一方、日本は応募が極端に少ないのが現状です」
そのため大学で教える際には、海外の状況を紹介しながら 「博物館で働くことの面白さと可能性」を学生へ伝えているといいます。
東洋館ならではの課題──複雑な構造と分かりにくい動線
谷口吉郎氏が設計した東洋館は、独特で魅力的な構造を持ちますが、視覚に不安のある来館者にとっては“いまどこにいるか分かりづらい”という課題もあります。
また、車いすユーザーの職員から、
- 「駅から正門までの動線が分かりづらい」
- 「館内の一部は目線の高さが合わない」
といった具体的な意見も寄せられました。この気づきを受け、プロジェクトでは新しい点字のフロアマップ制作にも着手。今後は案内の改善や導線の再設計などにも取り組んでいく予定です。
日本語と点字で記された内容を確認し、仲間と会話しながら展示を楽しむ仕掛け
展示室で“おしゃべりしていい”という文化をつくる
日本の博物館では「静かに鑑賞する」が暗黙のルールになりがちですが、アテンドの方から「真剣に説明しているうちに声が大きくなってしまい、周りが気になって話しづらかった」
という声もありました。
「いま、博物館では“静かにしてください”とは言っていないのですが、日本の美術館文化として“静かにしなければいけない”という思い込みがあります。インクルーシブ展示を進める以上、その思い込みも変えていきたい」
そこで東洋館では“おしゃべりフリー”というスローガンを打ち出し、展示を前に自然に会話しながら、気づきを共有する楽しみ方を推奨しています。
これからの東洋館が目指す姿
「当面は、視覚に障害のある方に向けた取り組みを軸に進めたい」と三笠さん。
特に要望が多かったのが、“触れる展示をもっと増やしてほしい”という声。今年度は1点のみでしたが、来年度以降は新たなハンズオン展示を少しずつ増やし、「東洋館に来れば、いつでも触って学べる展示がある」という状態を目指します。
また、SFC-IFCの学生たちとの協働も継続予定です。
「学生さんたちは本当に優秀で、学ばされることが多くありました。来年度もぜひ一緒に取り組みたいです」
三笠さんから学生の皆さんへメッセージ

三笠 景子 東京国立博物館学芸研究部調査研究課東洋室長
「博物館は“特別な場所”だと思われがちですが、本当はもっと自由で身近な存在でいいと思っています。展示制作には、学芸員だけではなく施工やデザインなど、さまざまな仕事の重なりで成り立っています。興味があればまずは一度、気軽に東洋館に来てみてください。そこから“自分はどう関われるだろう”と考えるきっかけが生まれたら嬉しいですね」
東洋館のインクルーシブ化は、単なる環境整備の枠を超え、展示の本質である「知る喜び」をもっと多くの人へ開くためのアップデートだと感じました。来館者の声に学び、試行錯誤しながら前へ進むこのプロジェクトが、これからの博物館のスタンダードになるでしょう。
文:Tokyo Huddle LLC
編集:学生の窓口編集部
取材協力:東京国立博物館 https://www.tnm.jp/



















