【連載】『あの人の学生時代。』 ♯10:株式会社タニタ 代表取締役社長 谷田千里「学生時間を楽しんで」 2ページ目
思いもよらぬ形で短大へと進む
――専門学校で調理師免許を取得された後に短大へと進まれていますが、その理由は何だったのでしょうか?
専門学校を卒業した後は、修行しながら親戚が集まる機会などで料理を振る舞っていました。そこで親戚から「援助するから早く店出しなよ」なんて言われることもあり、「パトロンも付いたし、順風満帆だ」と思っていたんです。そんな中で、椎間板ヘルニアを発症してしまい、それこそしびれと痛みで眠れないくらいになってしまいました。
――かなりひどい症状だったのですね……。
「これじゃどうしようもない」と思って手術をして、リハビリも続けたのですが、医師の先生から「立ち仕事はすぐ再発するからやめなさい」と言われてしまいました。それで調理師の道は諦めました。
じゃあどうするかな……と考えていたところ、「来年から中学の家庭科を男女共修にする」(※1)というニュースがあって、その中で「女性教諭しかいないから、男子生徒に教えるには男性教諭も必要」と言われていたのです。「これはチャンスだ!」と思いました。そこで、家庭科の教員免許を取得できる短大に進もうと考えたのです。
※1……「家庭科教育に関する検討会議」において家庭科を男女同一課程に改めることが決定。1993年(平成5年)に中学校、翌1994年(平成6年)に高校の家庭科が男女必修化された
――短大に進まれた背景には、そうした理由があったのですね!
「教員免許を取って、料理を教える側になるのもいいかな」と。それに、栄養士の資格も取得できます。それで家庭科の教職課程がある学校を探して、山口と九州の短大を受験してみることにしました。最初に山口の学校を受けたのですが、面接のときに「あなたは我が校で初めての男子学生です」って言われました。
――男子にとっては憧れの状況じゃないですか!
普通だと、そう考えますよね。でも、私は小中高と男子校(※2)で、女性に対する免疫があまりなかったのです。ですので、合格はしたものの、「それは無理です」と断っちゃいました。女性とまともに話せませんから、今で言う「ぼっち」になることが目に見えていましたから(笑)。九州の学校はそうではなかったので、そちらに入学することにしました。
※2……立教小学校、立教池袋中学校・高等学校は男子校
――そうなんですね。もし小中高と共学だったなら山口の学校を選んでいたかもしれませんね。
「よっしゃ!!」と意気込んで入学していたと思います(笑)。でも、そうではなかったので、佐賀短期大学(現・西九州大学短期大学部)に進み、そこで栄養士の資格と、教員免許を取得しました。調理師に栄養士に家庭科の教員免許と、他の経営者が持っていないような資格を取得していますよ。
世間の風の冷たさを知り4大へと進む……
――調理師に栄養士に教員免許といった、就職で有利に働きそうな資格を取得していながら、次は佐賀大学理工学部へと編入されますが、なぜ4大へと進まれたのですか?
実は編入する前に就職活動をしたのですが、感触は芳しくありませんでした。短大に入る前にも就活の経験があるのですが、書類審査ではじかれてしまう。学歴がどうこうというのはあまり言いたくないのですが、やっぱり学歴が偏重される傾向はあるのだと気づかされましたね。
――世間の風の冷たさを知ったと……。
はい、世間の風は冷たく厳しかったです。少しひねくれちゃいました(笑)。そうしたら、短大時代の恩師から、佐賀大学とは栄養実験など単位の互換が可能なため、「編入枠があるから受けてみないか」と言われて。お世話になった先生ですから、受かるかどうかは別にして受けてみようと……。その結果、合格することができて、佐賀大学理工学部の3年生として編入したのです。
――佐賀大学に進まれてからはいかがでしたか?
とにかく忙しかったです。教養課程など1年や2年での必須科目が取れていませんから、その授業を受けつつ、専門の化学の勉強をしたり、卒論をやりながら残っている必須科目を受けたり……みたいな毎日でした。言ってみれば2年間で4年分の勉強をするわけですから、遊ぶ暇もありませんでしたね。
――サークルやアルバイトもする時間はなかったのですか?
短大時代はアルバイトをしていましたけど、編入してからはとてもそんな時間はありませんでした。「大学生になれば遊べる」って勝手に思っていましたけど、「聞いていたのと違う!」となりましたよ。