【連載】『あの人の学生時代。』 ♯8:マンガ家 タナカカツキ「自分に魔法をかけよう!」 2ページ目
――大学時代に一番興味があったことは何でしたか?
「新人類」なんて言葉が出た時代でしたから、「パルコ文化」といいますか、西武セゾングループがやっていた展覧会、『日本グラフィック展』というのがあるんですが、これは相当面白かったですね。
※日本グラフィック展(パルコ主催)はそもそも榎本了壱さん(アートディレクター)が仕掛けた公募展に始まります。1983年の第3回大会では日比野克彦さんが大賞に選ばれ、翌年の第4回大会では応募者が手に自作を持って長蛇の列をなすほど、若きアーティストたちから支持される展示会となりました。
あとは音楽、演劇ですかね。「イカ天」ブームがあって、バンドがたくさん出てきた時代でしたし。演劇でも野田さんや鴻上さん(上記)が活躍されていましたから。
※「イカ天」は「三宅裕司のいかすバンド天国」の略称で、TBS系で放送された番組『平成名物TV』の中のバンドオーディションコーナーのこと。多くのアマチュアバンドがこのコーナーに登場し、『たま』『BEGIN』など多数のバンドがメジャーデビューを果たした。
ですから、グラフィック、お芝居、演劇、そういったものが自分にストレートに入ってきましたね。その一方で、困ったことにマンガに興味がなくなっちゃって。デビューしたのはいいんですけど、自分のマンガが掲載されている見本誌が送られてくるんですが、読みたくなくて。関心がなくなっちゃったんですね。
――ちなみに掲載誌は何でしたか?
そのころは『スピリッツ』ですね。娯楽志向の商業誌でしたから、関心のないマンガしか載ってないわけですよ。(マンガ家として)どう戦っていいかも分からない。自分の居場所はないなと思ってしまいましたね。
小学館でデビューしたんですが、これじゃ駄目だと思って『モーニング』に作品応募したりしていました。モーニングという雑誌には、その当時の若いアーティストたちの匂いがちょっとあったんですね。実験的な作品を掲載していたりとか。応募規定には「プロでもOK」となっていましたしね。(自作の)掲載誌を変えようとしました。
※タナカカツキさんさんは大学3年生のときに講談社で再デビューすることとなり、名作『逆光の頃』などの作品を描きます。『逆光の頃』は実写映画化され、2017年7月8日に公開となります。貴重なカラー原稿などを収録した『逆光の頃 完全版』が現在講談社から発売中。
――マンガ家をやっているということを周りには言っていたのですか?
隠していましたね。仲のいい数人には言ってましたが。1・2年生のときはペンネームでしたしバレなかったと思いますよ。さすがに3年生になったころには本名で再デビューしましたから周りも知っていたみたいですけど。
――どんな学生だったんでしょうか?
ヘンな話ですけど……僕、めっちゃお金あったんですよ。
――えっ!?
そのころ、週刊『モーニング』誌で連載していますしね。その分のギャラが入るわけですから。お金があるんですけど、特に使い道はなくて。ただ、お金があるということって自分で証明したくなるでしょ? 「オレはお金を持っているんだ」って。
だからファッションには全然興味はなかったんですが、無駄に同じ皮ジャンを2枚買う、とか意味のないことをしていましたね。で、その皮ジャンは人にあげちゃって、「ああ、やっぱりオレはお金あるんだ」って納得する。
あと、自分がマンガ家をやっていることを知っている仲間には言ってたんですよ「めっちゃ金あるけど、どうしよう?」って。「それはオモロイやん。共同のクルマを買おう。オレ免許あるからどこでも連れてったるで」と言われまして。
――買ったんですか?
買いましてね。クルマの名前を「自由号」と名付けて、カギは僕が持ってるんですけど、用事があるときには「おぅ、自由号借りに来たでー」なんて友達が来る。でも役に立ちましたよ。大きな画材とかでっかいカンバスを運んだりね。