【歴史豆知識】次期大河ドラマの主人公「真田信繁(幸村)」ってこんな人! 2ページ目
■東軍の徳川主力を抑え込む!
その後、皆さんもご存じのように徳川家康の時代が来ます。きっかけになったのは関ヶ原の戦いですが、このとき真田家は二つに割れてしまいました。兄・信之(信幸)は東軍に、父・昌幸と信繁(幸村)は西軍に付いたのです。
ただ、東軍西軍どっちが勝つか分かりませんから、どっちが勝っても、勝った方が負けた方の命乞いをすればいいわけで、しょむないといえばしょむないですが、自家のサバイバル戦術としては決して悪いものではありません。
父・昌幸と信繁(幸村)は、徳川秀忠率いる徳川軍主力3万5,000を、わずか2,000の兵力で上田に足止めし、関ヶ原に向かわせないという神業をやってのけます。しかし、関ヶ原では、その主力が到着しないでも西軍が負けるという体たらく。さぞ二人はガッカリしたでしょう。
西軍に付いたので、本来であれば死罪になるはずの父・昌幸と信繁(幸村)でしたが、信之(信幸)の家康への嘆願もあって命だけは助かります。信之(信幸)の奥さんが、徳川家の重臣・本多忠勝の娘(しかも徳川家康の養女)だったので、そのとりなしがあったのです。
命は助かりましたが、父・昌幸と信繁(幸村)は紀州の九度山に配流となってしまうのです。そこでも信繁(幸村)は忍従の生活を強いられます。この蟄居生活の中、父・昌幸は死去します。信繁(幸村)はつらかったことでしょう。
■うっぷんを晴らすかのように大奮戦!
その後、豊臣秀吉が死亡し、また天下が騒然としてきます。豊臣家は九度山に幽閉されていた信繁(幸村)にも参戦を呼びかけます。信繁(幸村)はこれに応じ、息子・幸昌(大助)と共に九度山を脱出し、大坂城に入ります。
そして……徳川家康がついに豊臣家と戦う軍を起こします。大坂冬の陣です。ここで信繁(幸村)は、大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」という曲輪(くるわ:簡単にいうと野戦用に築かれた砦です)を大坂城外に築き、ここで奮戦します。
徳川軍の攻撃を撃退、散々な目に遭わせます。信繁(幸村)の武名は一気に高まりました。忍従を強いられきた信繁(幸村)も、今までのうっぷんを一気に晴らすかのように戦ったのではないでしょうか。しかし、和睦が結ばれ、大坂冬の陣は終結。大坂城は堀を埋められ、真田丸も撤去されてしまいます。
半年後、大坂夏の陣が起こります。この最後の戦いで真田信繁(幸村)の率いる部隊は徳川家康の本陣にまで切り込む猛烈な突進を見せ、あわや……というところまでいきます。一説によれば家康も自殺を覚悟したほどだったそうです。
しかし、衆寡敵せずついに力尽きるのです。「わしの首を手柄にされよ」と敵に語ったのが最後の言葉といわれています。信繁(幸村)は、祖父・幸綱(幸隆)、父・昌幸の血を継いだ、知略を備えた勇将でした。信繁(幸村)がどのように大河ドラマで描かれるのか、今から楽しみですね。堺雅人さんはどんな真田信繁(幸村)を見せてくれるでしょうか?
(高橋モータース@dcp)